薩長同盟について - 山口観光を楽しもう!

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薩長同盟について


薩長同盟は、薩摩藩と長州藩が手を結び、歴史の大きな転換点となりました。

そもそも

公武合体の薩摩藩

尊王攘夷の長州藩

と目指すものが異なっていました。

薩摩藩は、尊王攘夷を掲げて朝廷での発言力を増していく長州藩を策謀により京都より追い出しました。

1863年8月18日の政変

1864年6月5日の池田屋事件

長州では「京にのぼり長州の真意を朝廷に伝えたい」という気運が高まります。

1864年(元治元年7月19日)禁門の変(蛤御門の変)

長州藩は、敗北して多くの志士を失いました。

これらの事件に関わっていたのが「薩摩藩と会津藩」

長州藩は、両藩(薩摩藩と会津藩)を憎むことになります。


幕府は、力が弱まった長州藩の息の根を止めるため、第二次長州征伐(四境戦争)を計画します。

薩摩藩は、これに反対、長州藩が潰れれば、幕府の討伐の矛先が薩摩藩に向かうことを警戒したと言われています。

長州藩は、朝敵とされ、武器の購入はできない状態でしたが、土佐の坂本龍馬の斡旋で、薩摩藩名義で購入した武器を長州藩に流すことで購入が実現しました。

そして

薩摩藩は、長州藩を隠れ蓑にして政治活動を続けることができ双方の利害が一致しました。

感情面のわだかまりは一掃できずに、幾度の会合を経て、双方の同盟は切り出さない。

坂本龍馬の説得で

1866年1月「薩長同盟」締結にいたりました。

新型の武器を購入した長州藩は、四境戦争に勝ちました。

薩長主導の倒幕の流れが進み、大政奉還、明治時代へと時代が変化していきました。

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