山口・萩の世界遺産「松下村塾」史跡でもあります - 山口観光を楽しもう!

スポンサーリンク


山口・萩の世界遺産「松下村塾」史跡でもあります

松下村塾.jpg

松下村塾

松下村塾は、吉田松陰が安政4年(1857)から5年(1858)に主宰した私塾で、椿東の松陰神社の中にあります。

吉田松陰は、天保元年(1830)、萩藩士の杉百合之助の二男として生まれました。6歳の時に、藩の兵学師範だった伯父の吉田大助が急死し、その後を継ぎ、藩校明倫館で兵学を教えることになり人生が大きく変わります。

兵学の専門家となった吉田松陰は、藩を出て、日本各地を旅し知識と見聞を広めます。

嘉永6年(1853)、黒船来航を聞いた松陰は浦賀へ急行します。欧米の軍事力を目の当たりにし、直接自分の目で海外の実情を確かめたいと考えた松陰は、翌年、再来航した黒船に乗り込もうとしますが拒絶され、囚われの身となります。

その後、実家に幽閉された吉田松陰は安政3年(1856)3月、教えを請いに集まってきた親類や近所の若者に対して講義を開始しました。その後も人数が増え続けたため、家族は実家の隣にある小屋を修理して、松陰に塾舎として使わせます。その後も更に人数が増えたため、10畳半の部屋を増築しています。安政5年、幕府政治を批判した松陰は、野山獄に投じられ、塾は閉鎖されました。

吉田松陰が幽閉された幽囚室のある実家と塾舎が、松下村塾として構成資産の一つとなっています。松下村塾は、幕末に産業化に取り組み、産業文化を形成していった当時の地域社会における人材育成の施設を表しています。

吉田松陰は、海防の観点から工学教育の重要性をいち早く提唱し、工学の教育施設を設立し在来の技術者を総動員して自力で産業近代化の実現を図ろうと説きました。その教えを受け継いだ塾生らの多くが、後の日本の近代化・産業化の過程で重要な役割を担いました。

明治維新の先覚者吉田松陰が主宰した私塾。松陰は海防の観点から工学教育の重要性をいち早く提唱し、自力で産業近代化の実現を図ろうと説きました。黒船来航で欧米の軍事力を目の当たりにした松陰は、自分の目で海外の実情を確かめたいと考え、国禁を犯してまで黒船に乗り込んで海外密航を計画しました。
松陰の教えを受け継いだ塾生らの多くが、のちの日本の近代化・工業化の過程で重要な役割を担いました。

スポンサーリンク

タグキーワード
| このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

Copyright © 山口観光を楽しもう! All Rights Reserved.
当サイトのテキストや画像等すべての転載転用・商用販売を固く禁じます